「思考のOS」を鍛える、人類学・民族誌の名著
【第1回】デヴィッド・グレーバーの肖像:価値、負債、そして想像力としての革命|全3回シリーズ
2020年9月、ヴェネツィアでの突然の訃報は世界中の知識人や活動家に衝撃を与えました。デヴィッド・グレーバー(David Graeber, 1961-2020)。彼はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の教授でありながら、ウォール街占拠運動(Occupy Wall Street)の理論的支柱としても知られた、稀代の「アナーキスト人類学者」でした。しかし、彼の活動家としての側面ばかりに目を奪われると、彼が人類学に残した理論的な革新の深みを見落とすことになります。

本シリーズ第1回では、グレーバーの研究者としての全体像を俯瞰し、彼が生涯を通じて問い続けた「価値」「負債」、そして「想像力」という核心的なテーマを紐解いていきます。彼の思想は、単なる資本主義批判にとどまらず、私たちが生きる社会の道徳的基盤そのものを問い直す壮大なプロジェクトでした。
マダガスカルから世界へ:人類学的実践の原点
グレーバーの知的キャリアは、1989年から1991年にかけて行われたマダガスカルでのフィールドワークから本格的に始まります。彼はそこで、国家権力が及ばない場所で人々がいかにして秩序を維持し、歴史を記憶し、社会的な力を生み出しているかを詳細に観察しました。
彼の初期の関心は「魔術」や「奴隷制の記憶」にありましたが、そこには常に「権力」と「知識」の関係への鋭い洞察がありました。例えば、マダガスカルの「薬(fanafody)」や「護符(ody)」をめぐる人々の語りは、単なる迷信ではなく、目に見えない力をどう制御するかという政治的な実践でした。彼は後に、現地の呪術的な実践の中に、社会的な創造性のパラドックス――人々が自分たちで作ったもの(神や王)を、自分たちを超越した力として崇めること――を見出します。これは後の『価値論』や『負債論』へと繋がる重要な伏線となります。
また、彼がイェール大学で教鞭をとりながらも契約更新を拒否された(事実上の解雇)経緯は、彼のアナーキズム的な信念とアカデミズムの保守的な構造との対立を象徴する出来事でした。しかし、彼はその後のロンドンでの活動を通じて、より広範な読者に届く著作を次々と発表し、人類学の枠を超えた「公共知識人」としての地位を確立していきました。
価値論の再構築:マルクスとマウスの統合
グレーバーの理論的バックボーンにおいて最も重要なのが、2002年の著書『価値論――人類学からの総合的視座の構築』で示された「価値(Value)」の再定義です。

経済学において価値とは、通常「価格」や「交換価値」を指します。しかしグレーバーは、人類学の伝統に立ち返り、価値をより広義に捉え直しました。彼が依拠したのは、カール・マルクスの生産論と、マルセル・モースの贈与論の統合です。マルクスからは「世界を変革する人間の創造的行為(労働)」としての価値の源泉を、モースからは「行為が他者の目に重要であると認められる社会的なプロセス」としての価値の承認を引き出しました。
グレーバーにとって価値とは、固定された「物」ではなく、人々が自らの行為を「より大きな社会的全体性に組み込む」プロセスそのものです。例えば、ビーズや貝殻の首飾りが「価値あるもの」とされるのは、それ自体が貴重だからではなく、それが社会的な関係性を構築し、維持するためのメディア(媒体)として機能するからです。
彼はまた、「価値(Value)」と「諸価値(Values)」の対立にも注目しました。経済的な「価値」はすべてを貨幣という単一の尺度で比較可能にしますが、愛、名誉、真理といった「諸価値」は比較不可能です。現代社会の悲劇は、市場原理がこの比較不可能な「諸価値」の領域を侵食し、すべてを「経済的価値」へと還元しようとする点にあります。しかし同時に、人々は経済活動を通じて得た富を、最終的には「諸価値」の領域(例えば、家族への愛や芸術への貢献)へと変換しようとします。この「価値」と「諸価値」の間の緊張関係こそが、政治的闘争の核心にあると彼は論じました。
経済関係の3つの道徳的基盤
グレーバーの理論が持つユニークな点は、経済活動を単なる利己的な計算ではなく、道徳的な関係性として捉える点にあります。彼は論文「経済関係の道徳的基盤(On the moral grounds of economic relations)」において、あらゆる社会に共存する3つの異なる道徳的論理を提示しました。
- 共産主義(Communism):これはソ連型の国家体制のことではなく、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という日常的な原理を指します。家族内でのケア、友人間での助け合い、災害時の協力など、見返りを求めない相互扶助は、社会生活の基礎(ベースライン・コミュニズム)です。ここでは計算は「道徳的に不快なもの」とされます。
- 交換(Exchange):等価性と相互性を基本とする関係です。市場での売買や、贈り物への返礼がこれに当たります。交換の特徴は、等価なものを返すことで関係を「清算(キャンセル)」できる点にあります。借りたものを返せば、二人の関係は対等に戻り、終わらせることができます。
- ヒエラルキー(Hierarchy):形式的な不平等を前提とした関係です。ここでは「相互性」や「等価性」は適用されません。弱者が強者に貢物をし、強者が弱者に恩恵を施すことはあっても、それは等価交換ではありません。むしろ「先例」が論理となります(「去年も貢いだのだから今年も貢げ」)。
グレーバーは、私たちが通常「経済」と呼んでいる市場交換は、これら3つの原理の一部に過ぎないことを暴露しました。そして、資本主義社会においても、実は「共産主義(日常的な助け合い)」が社会を回すための不可欠な基盤として機能していることを強調しました。
負債論:貨幣と暴力の5000年
この道徳的基盤の分析を歴史的スケールで展開したのが、世界的ベストセラー『負債論』(2011)です。

経済学の教科書は、「物々交換の不便さを解消するために貨幣が生まれた」と説明しますが、グレーバーはこの神話を考古学的・人類学的証拠を用いて粉砕しました。歴史的には、貨幣(計算単位)が先にあり、物々交換は貨幣経済が崩壊した後に現れる現象でした。そして、原初的な人間関係は「負債(借り)」によって成り立っていました。
しかし、この人間的な「負債」が、国家や市場によって暴力的な装置へと変貌します。彼は歴史を、人間的な信頼関係に基づく「人間経済」と、人間を物として扱う「市場経済」との間の緊張関係として描きました。特に、「借金は必ず返さなければならない」という道徳が、いかにして暴力や奴隷制、そして現代の金融資本主義を正当化するための最強のイデオロギーとして機能してきたかを暴き出しました。
古代においては定期的に債務を帳消しにする「徳政令(ジュビリー)」が存在しましたが、現代社会では債務の道徳性が絶対視され、国家の暴力(警察、裁判所)によって取り立てが保証されています。グレーバーは、負債を「約束」の一形態として認めつつも、それが生命や自由を破壊する場合、その約束は再交渉されるべきだと主張しました。
アナーキズムと予示的政治:想像力の奪還
グレーバーの研究と実践を貫くのは、「アナーキズム」の精神です。彼のアナーキズムは、混沌や無秩序を意味するものではありません。それは、強制的な権力(国家)に頼らずとも、人々は合意形成を通じて自律的に社会を運営できるという確信に基づいています。
彼は『アナーキスト人類学のための断章』(2004)などの著作で、人類学こそがアナーキズムに最も親和性の高い学問だと論じました。なぜなら人類学は、国家や警察、刑務所が存在しない社会が実際に機能してきた数多の事例を知っているからです。

彼が提唱した重要な概念に「予示的政治(prefigurative politics)」があります。これは、将来実現したい社会の姿を、現在の運動や実践の中で「先取り」して体現することを指します。例えば、オキュパイ運動におけるリーダーのいない直接民主制や、全員の合意を目指すコンセンサス・プロセスは、国家に要求を突きつける手段である以上に、新しい社会のあり方を「今ここで」実践する試みでした。
グレーバーにとって、最大の敵は「想像力の枯渇」です。官僚制や資本主義は、私たちから「これ以外の世界が可能である」と考える力を奪います。彼は著作を通じて、人類の歴史には常に多様な選択肢があったことを示し、読者に対して、閉じ込められた想像力を解放し、社会を再構築する自由を行使するよう呼びかけました。
結び:統合されたプロジェクトとして
デヴィッド・グレーバーの研究者としての全体像は、単なる「負債の専門家」や「活動家」という枠には収まりません。マダガスカルの呪術からウォール街の金融まで、彼の視線は一貫して「人間はいかにして価値を創造し、同時になぜ自ら作ったシステム(負債、官僚制、国家)に隷属してしまうのか」という問いに向けられていました。
彼は、学問的厳密さと政治的ラディカリズムを、ユーモアと平易な言葉で統合しようとしました。彼の遺した著作は、私たちが当たり前だと思っている経済や社会のルールが、実は歴史的・文化的に特殊なものであり、変えることができるものだという希望を与えてくれます。
次回は、彼のもう一つの代表作『ブルシット・ジョブ』を起点に、現代社会における「労働」の意味と、労働人類学の最前線について論じます。

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