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【事前学習】近世日本の「生きられた」学び舎を知る――日田・咸宜園と廣瀬淡窓が切り拓いた教育のフロンティア
はじめに
体験講座「近世日本の『生きられた』学び舎 ―私塾が育んだリベラルアーツと近代化の土壌―」に向けた事前学習記事として、今回は大分県日田市にあった日本最大規模の私塾「咸宜園(かんぎえん)」と、その創設者である廣瀬淡窓(ひろせたんそう)をクローズアップします。日田というと、進撃の巨人の作者の出身地として、聖地巡礼の場となっていますが、近世日本の私塾やリベラルアーツの発祥の地でもあります。


近代的な学校制度が導入される以前の江戸時代、日本の識字率や教養レベルは世界的に見ても驚異的な高さでした。その背景には、支配者層である武士だけでなく、多くの庶民にも開かれた「私塾」や「郷学」の存在がありました。その中でも、身分制社会という枠組みの中で、徹底した平等主義と実力主義を掲げたのが咸宜園です。
本記事では、歴史社会学的視点から咸宜園の実態を紐解き、廣瀬淡窓がいかにして多様な人々を受け入れ、リベラルアーツ(総合的な学問)の土壌を築き上げたのか。そして、その私教育の広がりが、日本の近代化へどのように接続していったのかを詳しく解説します。
1. 廣瀬淡窓と「天領・日田」という土地柄
咸宜園の特異な教育を理解するためには、まず創設者である廣瀬淡窓の立ち位置と、日田という土地の特殊性を知る必要があります。
日田は江戸幕府の直轄地(天領)であり、代官所が置かれ九州の政治・経済の中心地として繁栄していました。街道の結節点であり、九州の大阪であったこの地には、九州諸大名と代官所をつなぐ「御用達」や、公金を扱う「掛屋(かけや)」として莫大な富を築いた豪商たちが軒を連ねていました。
淡窓は天明2年(1782年)、この日田を代表する豪商・廣瀬家の長男として生まれました。しかし病弱であったため、家業は弟の久兵衛に譲り、自らは学問(儒学)の道で生きることを決意します。
儒学者となった淡窓は、「処士(在野の学者)」としての強い誇りを持ちつつも、商人(農工商)出身であるという現実的な視点、つまり「経済的リアリズム」を生涯持ち合わせていました。50代の時、幕府から「永世苗字帯刀」を許された際には、武家社会の末端に連なったことを無上の光栄としつつも、幕末にペリーが来航した際には、単なる攘夷論に終始せず「交易(通商)」の重要性を冷静に分析する柔軟な思考を示しています。この「地に足のついた経済感覚」と「学問への情熱」の融合こそが、後に咸宜園という画期的な学び舎を生み出す原動力となったのです。
2. 「咸宜園」の画期的な教育システム――三奪法と月旦評
文化14年(1817年)、淡窓は豆田町の南に塾舎を新設し、「咸宜園」を開きました。咸宜園という名前は、『詩経』の一節「殷命を受く咸宜(ことごとくよろし)」に由来し、「すべてのことがよろしい」という意味が込められています。

この言葉を体現するように、咸宜園の最大の特徴は「三奪法(さんだつほう)」と呼ばれる徹底した平等主義にありました。入門する際、年齢、学歴、そして身分という3つの要素を一切問わず(奪い)、誰もが同じスタートラインに立って学ぶことを保障したのです。武士の息子も、豪商の跡取りも、農民の次男坊も、咸宜園の門をくぐればただの「塾生」として共に机を並べました。
さらに、淡窓は「月旦評(げったんひょう)」という実力主義の評価システムを導入しました。これは毎月、塾生の学業成果を評価し、等級(無級から始まり、細かくランク分けされる)を発表するものです。試験の成績によって座席の順位が決まり、努力次第で上位のクラスへと上がることができるこの仕組みは、身分や家柄によって将来が固定化されていた社会にあって、若者たちの向学心を強く刺激しました。
結果として、咸宜園は明治30年(1897年)に閉塾するまでに、全国60か国以上から5000人を超える門下生を集める、日本最大規模の私塾へと成長を遂げたのです。
3. 「笈を負わず」に学べる環境――蔵書銭と知の共有
当時の学問において最大の障壁の一つが「書籍の確保」でした。本は高価であり、大都市以外で大量の書物を手に入れるのは困難でした。そのため、遠方から遊学する若者たちは、重い書籍を箱(笈)に入れて背負って旅をしなければなりませんでした。
そこで咸宜園では、塾生から「蔵書銭」を徴収し、塾の蔵書(義書)を充実させるという画期的なシステムを作り上げました。記録によれば、淡窓の時代には塾生一人あたり1日2銅を徴収し、書籍の共同購入に充てていました。弟の広瀬旭荘が塾政を執った時代にもこの制度は整備され、借覧する者から追加で料金を徴収するなどして、蔵書は最終的に5000巻を超える規模に達しました。
蔵書は成績優秀な塾生が「蔵書監」として管理にあたり、目録を作成し、汚損や破損には罰則が設けられていました。このシステムにより、遠方からの遊学生は重い笈を背負わずに日田へ赴き、多種多様な書物を閲覧することができたのです。
四書五経などの経典はもちろん、歴史書、文学書など多様なテキストが揃えられ、塾生たちは講義のほか、自由な自学自習に励みました。これはまさに、身分や経済力に関わらず「知」を共有し合う、現代の図書館やリベラルアーツ教育の基盤とも言える仕組みでした。
4. 洋学への寛容さと実学志向――リベラルアーツの土壌
咸宜園は漢学(儒学)を中心とする塾でしたが、淡窓の学問観は決して偏狭なものではありませんでした。彼は自身の著書『迂言』の中で、学問は細分化し専門的に学ぶべきだと主張しています。経学、歴史学、文章学だけでなく、兵学、医学、天文学、そして「蘭学(洋学)」や「数学」までもが、国のために役立つ重要な学問領域であると認識していました。
淡窓自身は洋学を直接教えたわけではありませんが、蘭学に対して非常に寛容であり、長崎でオランダ商館(蘭館)を訪れた際には、偏見なく望遠鏡を覗き込み、西洋の科学技術(医術や天文)の優秀さを素直に認める漢詩を残しています。
このような開かれた風土のもと、咸宜園で漢学の基礎を修めた後、さらに洋学(医学や兵学)を志す塾生には、それを大いに奨励しました。たとえば、高野長英、岡研介、林洞海、武谷祐之といった幕末を代表する蘭学者や医師たちが咸宜園で学んでいます。淡窓は、坪井信道などの著名な洋学者とも親交を結び、優秀な門人を彼らのもとへ送り出しました。
咸宜園での徹底した読解力・文章力の訓練(リテラシー教育)と、合理的な思考の養成が、後に西洋の難解な学術書を読み解くための「知的体力」を育みました。咸宜園は単なる漢学の素読にとどまらず、激動の時代を生き抜くための「総合的な知性(リベラルアーツ)」を身につけるハブとして機能していたのです。
5. 町全体がキャンパス――「学園都市」豆田町
咸宜園の発展を支えたもう一つの重要な要素が、地域社会との共生です。咸宜園がある日田の豆田町は、全国から集まる数多くの塾生たちを受け入れる「学園都市」としての機能を持っていました。
咸宜園の敷地内には講堂や寮舎がありましたが、塾生が急増するとすべての生徒を収容することはできません。そこで、他国からの門下生たちは、豆田町の商家や長福寺といった近隣の施設に下宿し、日々の生活を送りました。また、淡窓自身も豆田町の商家に出張して講義を行うなど、教育の場は塾舎の枠を越えて地域全体に広がっていました。

厳しい身分制社会にあって、豆田町の商人たちと全国から集まった若者たちが日常的に交わり、生活と教育が相互に支え合う空間が形成されていたことは、歴史社会学的に見ても非常に興味深い現象です。教育は教室の中だけで完結するものではなく、地域経済や生活の場と密接に結びついていたのです。
6. 明治維新と咸宜園のその後――近代教育への接続と葛藤
江戸時代を牽引した咸宜園ですが、明治維新を迎え、国家による近代的な画一的学校制度(学制)が導入されると、大きな転換期を迎えます。
明治7年(1874年)、第4代塾主の死去などに伴い咸宜園は一時閉鎖されます。しかし、明治13年(1880年)、元塾生たちの尽力により「瓊林義塾(けいりんぎじゅく)」として再興されました。彼らは淡窓の教育理念を守るため「宜園保存会」を結成し、広く醵金(寄付)を集めて塾を運営しようと奔走しました。広瀬(淡窓)家の家業としての塾から、有志による「義塾」へと近代的な運営への脱皮を図ったのです。
時代が急速に西洋化へと向かう中、咸宜園も単なる漢学塾からの脱却を模索します。明治19年(1886年)には、近隣の中学校の廃校に伴い、その蔵書(英書や数学書)を借り受け、カリキュラムに「英語」や「数学」といった普通学科を導入しました。これは、官公立の学校に通えない若者たちに対して、近代国家が求める新たな教育を提供しようとする果敢な挑戦でした。
しかし、慢性的な資金不足や洋学教師の確保の難しさ、そして日田という地方都市の限界もあり、この近代化の試みは数年で挫折し、再び漢学専門の塾へと回帰せざるを得ませんでした。その後、全国的な漢学塾衰退の波に抗えず、咸宜園は明治30年(1897年)にその長い歴史に幕を下ろします。
それでも、咸宜園が果たした役割は決して小さくありません。公教育が十分に普及していなかった明治前期において、多くの若者に基礎教養を与え、法律学校など上級学校へ進学するための架け橋としての機能を果たしました。咸宜園が育んだ「階層を超えて主体的に学ぶ文化」と「高いリテラシー」は、日本の近代化を知的に準備した決定的な要因の一つとして評価されています。
おわりに
「科挙(官僚登用試験)」のような国家主導の立身出世のルートがなかった江戸時代の日本において、廣瀬淡窓の咸宜園は、身分や地域にとらわれない自由で実力主義的な学びの空間を自生的に創り上げました。そこにあったのは、強制されて学ぶ姿ではなく、「もっと知りたい」「自分を高めたい」という自発的な学習意欲と、それを包み込む地域社会の温かい土壌です。
現代の私たちが直面している教育の課題――不登校の増加、多様な学びのニーズ、画一的な学校制度の見直し――を考えるとき、咸宜園が実践した「三奪法」による柔軟性や「リベラルな学風」は、これからのオルタナティブな教育のあり方に多くのインスピレーションを与えてくれます。
本記事で当時の空気感を感じていただいた上で、ぜひ本番の体験講座にご参加ください。「生きられた学校」としての近世日本の教育遺産が持つ普遍的な価値について、さらに深く探求していきましょう。



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