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【精選 民族誌】砂漠の賢者が語る「人間であること」の技法:ショスタック『ニサ』が解き明かすカラハリ狩猟採集民の精神史と現代への処方箋

This entry is part 13 of 17 in the series 「思考のOS」を鍛える、人類学・民族誌の名著

「思考のOS」を鍛える、人類学・民族誌の名著

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【連載 ①】データで見えない「社会の真実」を聴く技術

序章:カラハリの地平線から届く声

1969年、当時24歳であったマルジョリー・ショスタック(Marjorie Shostak)は、ボツワナ北西部の辺境、ドベ(Dobe)地域へと足を踏み入れた。彼女の目の前に広がっていたのは、見渡す限りの赤茶けた大地と、棘のある灌木が点在するカラハリ砂漠であった。彼女がこの地を訪れた目的は、人類史の99%を占めてきた「狩猟採集」という生き方を営む人々、!クン・サン(Ju/’hoansi)の女性たちの内面世界を記録することにあった。

当時、人類学の世界では「マン・ザ・ハンター(狩る男)」というモデルが支配的であり、狩猟を行う男性こそが社会の中心であり、進化の推進力であると考えられていた。しかし、ショスタックはその定説に疑問を抱いていた。食料の6割から8割を供給するのは植物採集を行う女性たちであり、彼女たちの知恵と労働こそがコミュニティの生存を支えているのではないか。そして何より、文明の利器を持たない彼女たちは、恋愛、結婚、出産、そして死といった普遍的な人生のイベントをどのように感じ、どのように生きているのか。

そこで彼女が出会ったのが、ニサ(Nisa)という仮名で呼ばれる50代の女性であった。ニサは驚くほど雄弁で、ユーモラスで、そして悲劇的な人生の語り部であった。彼女との15回にわたるロング・インタビューをまとめた著書『ニサ:!クン・サンの女性の言葉と生活(Nisa: The Life and Words of a!Kung Woman)』は、1981年の出版以来、人類学の金字塔として、またフェミニズム文学の古典として読み継がれている。

Nisa: The Life and Words of a Kung Woman by Marjorie Shostak

本稿では、ショスタックが残したこの記念碑的著作と、その後の関連研究を徹底的に読み解きながら、!クン・サン社会が持つ高度な「社会技術(Social Technology)」を現代的視点から再評価する。彼らが実践する「肉の侮辱」「クサロ交換」「アロマザリング」「クソトラ」といった慣習は、単なる原始的な風習ではない。それは、エゴイズムを抑制し、心理的安全性を担保し、ケアを共同化するための、洗練された生存戦略である。現代社会が直面する孤立、格差、組織不全といった課題に対し、砂漠の賢者ニサの言葉は、驚くほど鮮烈な解決の糸口を提示している。


第1章:ドベ地域の生態系と「豊かな」社会

1.1 極限環境における生存戦略

ニサが生きたドベ地域は、ナミビア国境に接する半乾燥地帯である。年間降水量はわずかであり、地表水は季節によって現れるパン(水たまり)に限られる。この過酷な環境下で、!クン・サン(ジュ・ホアンシ)の人々は数千年にわたり、自然環境に過度な負荷をかけずに生き抜いてきた。

彼らの社会構造の基本単位は、10人から30人程度で構成される「バンド(Camp)」である。彼らは定住せず、水と食料を求めて移動を繰り返す。そのため、物質的な所有は極限まで制限される。個人の持ち物はすべて合わせても12kg程度に収められ、富を蓄積することは物理的に不可能である。この「持たざる生活」は、彼らの平等主義的な社会構造の物理的基盤となっている。

1.2 採集活動と女性の経済的自立

ショスタックやリチャード・リー(Richard Lee)の研究が明らかにした最も重要な事実は、!クン・サン社会における女性の経済的貢献度の高さである。男性による狩猟は、成功すれば大量のタンパク質(肉)をもたらすが、その成功率は決して高くない。一方、女性による植物採集(モンゴンゴの実、根菜類、ベリーなど)は安定的であり、日々のカロリー摂取の基盤を支えている

ニサの語りからは、女性たちがブッシュ(藪)への深い知識を持ち、自律的に行動している様子が浮かび上がる。彼女たちは誰かに命令されて働くのではなく、自らの判断で採集に行き、その成果を分配する。この経済的自立性が、女性の発言権の強さと、ジェンダー間の相対的な平等を担保しているのである。マーガレット・ミードが提唱したような家父長制の普遍性は、ここでは適用されない。


第2章:ニサのライフヒストリー――普遍としての個

2.1 原初的な嫉妬と愛着

ニサの物語は、弟クムサの誕生と、それに伴う激しい嫉妬の記憶から幕を開ける。母の背中から降ろされ、乳房を奪われた幼いニサは、「あの子を殺して! 鳥にあげてしまって!」と叫び、母乳への執着を見せる。

このエピソードは、文化的な装飾を取り払った人間本来の「愛着(Attachment)」への渇望を鮮烈に描き出している。ショスタックは、ニサの幼少期の記憶には後年の再構成が含まれている可能性を指摘しつつも、その感情のリアリティは普遍的であると述べる。私たちは皆、独占的な愛を失う痛みを知っており、そこから社会化のプロセスを開始するからだ。

2.2 セクシュアリティの解放とリアリズム

本書が西欧社会に衝撃を与えた理由の一つは、女性のセクシュアリティに関するあけすけな記述である。!クン・サンの女性たちは、性について極めてオープンであり、性的な満足を生命力の源泉として肯定的に捉えている。ニサは「性欲が満たされない女性は死んでしまう」という極端な比喩さえ用いる。

彼らの社会では、結婚外の恋人(zham)を持つことが半ば公然と行われている。ニサ自身、数多くの恋人たちとの情事や駆け引きを、まるで武勇伝のように語る。しかし、それは決して無秩序な乱交ではない。そこには激しい嫉妬や社会的な緊張が常に伴っており、不倫が発覚すれば殺傷沙汰に発展することもある。ニサの語りは、自由恋愛の理想化ではなく、人間の情動がいかに制御困難で、かつ魅惑的であるかというリアリズムを突きつける。

2.3 喪失の連続とレジリエンス

ニサの人生は、現代人の想像を絶する「喪失」の連続である。彼女は4人の子供を出産したが、その全員を幼くして失っている。感染症、栄養失調、不慮の事故。さらに、最愛の夫たちとも死別する。

しかし、ニサの物語は悲劇で終わらない。彼女は嘆き、神を呪い、地面を叩いて泣くが、決して生きることを諦めない。彼女は言う。「神は私に与え、そして奪った。でも私はここにいる」。この圧倒的なレジリエンス(回復力)こそが、本書の核心である。彼女は悲しみを抑圧せず、儀礼や語りを通じて表現し、コミュニティの中で共有することで、再び立ち上がる力を得ているのである。


第3章:平等を強制する技術「肉の侮辱」

3.1 成功者を称賛しない社会

!クン・サン社会には、現代の成果主義社会とは真逆の、しかし極めて合理的な社会的メカニズムが存在する。「肉の侮辱(Insulting the Meat)」と呼ばれる慣習である。

人類学者リチャード・リーの有名な報告「カラハリでクリスマスを食べる(Eating Christmas in the Kalahari)」によれば、彼が村人への感謝として最高級の肥えた去勢牛をプレゼントした際、村人たちはその牛を徹底的にこき下ろした。「なんだこの骨と皮ばかりの老いぼれ牛は」「こんな痩せた肉では誰も満腹になれない」「我々を侮辱する気か」と、口々に罵倒したのである。

リーは困惑し、落ち込んだが、実際に解体してみると牛は脂が乗っており、宴は大成功に終わった。後日、リーがなぜあのような嘘をついたのかと問うと、長老の一人トマゾ(Tomazo)はこう答えた。

「若者が大きな獲物を仕留めたとき、彼は自分を首長(Chief)やビッグマン(Big Man)だと思い込み、残りの我々を下僕のようにみなすようになる。我々はそれを受け入れない。自慢する者を拒絶する。なぜなら、いつかその誇りが誰かを殺すことになるからだ。だから我々は常に彼の肉を価値のないものとして語る。そうすることで彼の心を冷まし(cool his heart)、穏やかにさせるのだ」

3.2 レベリング・メカニズムとしての機能

文化人類学において、これは「平準化メカニズム(Leveling Mechanism)」と呼ばれる。狩猟採集社会において、特定の個人に権力や富が集中することは、集団の結束を乱す最大のリスク要因である。優れたハンターが権力を持ち、分配をコントロールし始めれば、平等のバランスは崩壊する。

したがって、彼らは「謙虚さ」を個人の道徳心に委ねるのではなく、社会的な儀礼として強制するシステムを構築した。ハンター自身も、どんなに大きな獲物を獲っても「今日は小さな鳥しか獲れなかった」と卑下して報告しなければならない。周囲はその言葉に乗っかり、さらに貶めることで、ハンターの自我(エゴ)が肥大化するのを防ぐのである。

3.3 現代組織論と心理的安全性への示唆

この慣習は、現代の組織論、特にリーダーシップやチームビルディングにおいて重要な示唆を含んでいる。

比較項目現代の成果主義社会!クン・サン社会(肉の侮辱)
成功への反応称賛、報酬、昇進侮辱、嘲笑、謙遜の強制
リーダー像カリスマ、牽引型サーバント、調整型、目立たない
目的個人のモチベーション向上集団の結束維持、エゴの抑制
リスクナルシシズム、格差、分断過度な同調圧力、突出の抑制

現代のビジネス環境、特にアジャイル開発やイノベーション組織においては、「心理的安全性(Psychological Safety)」の重要性が叫ばれている。Googleのプロジェクト・アリストテレスが明らかにしたように、「誰もが罰せられる不安なく発言できる状態」こそがチームの生産性を高める。

!クン・サンの「肉の侮辱」は、一見するとネガティブなフィードバックに見えるが、実は「誰も特別ではない」という空気を作ることで、全員が対等に振る舞える土壌を作っているとも解釈できる。突出した権力者がいないからこそ、誰もが意見を言えるのである。また、リーダーが自らの成果を誇らず、チームへの奉仕者(サーバントリーダー)として振る舞うことの重要性を、彼らは数千年前から実践していたと言える。


第4章:関係性を紡ぐ経済「クサロ交換

4.1 遅延する贈与とリスク分散

!クン・サン社会の生存を支えるもう一つの柱が、「クサロ(Hxaro)」と呼ばれる交換システムである。これは、食料以外の物品(ビーズ細工、矢、道具、布など)を特定のパートナー間で交換する慣習である。

クサロの最大の特徴は、「等価交換の即時性」を否定している点にある。市場取引(Barter/Trade)では、物と対価は同時に交換され、そこで関係は清算される。しかしクサロでは、今日贈り物をしても、返礼が来るのは半年後かもしれないし、1年後かもしれない。また、渡した物と返ってくる物の価値が厳密に釣り合っている必要もない。

重要なのは「借り(Debt)」の状態を維持することである。借りが残っている限り、二人の関係は続く。クサロは「富の交換」ではなく、「関係性の維持」を目的とした経済システムなのである。

4.2 30,000年前からのソーシャル・ネットワーキング

ポリー・ウィズナー(Polly Wiessner)らの研究によれば、このクサロのネットワークは驚くほど広域に及ぶ。一人の大人は平均して10〜16人のクサロ・パートナーを持ち、その範囲は30kmから200km先にまで広がる。

これは単なる友好関係ではない。過酷な環境を生き抜くための切実なリスクヘッジ(保険)である。例えば、自分の住む地域が干ばつで食料不足に陥った際、人々は遠方のクサロ・パートナーを頼って移動する。パートナーは彼らを歓待し、その地域の資源(水や植物)へのアクセス権を共有する義務がある。つまり、クサロ・ネットワークは、広大な空間を利用した相互扶助のセーフティネットなのである。

考古学的な証拠によれば、ダチョウの卵殻ビーズ(Ostrich Eggshell Beads)を用いた同様の長距離交換システムは、少なくとも33,000年前から存在していたとされる。人類は言葉を持つ以前から、「物」を介して遠くの他者とつながり、助け合うネットワークを構築していたのである。

4.3 現代ビジネスにおける「弱いつながり」の強さ

クサロの概念は、現代のソーシャル・ネットワーキング理論における「弱いつながりの強さ(The Strength of Weak Ties)」や、ビジネスにおけるネットワーキングの本質に通じるものがある。

現代のビジネスネットワーキングにおいても、即座の見返りを求める「テイカー(Taker)」よりも、まずは他者に貢献する「ギバー(Giver)」の方が、長期的には成功しやすいと言われる。クサロは、まさにこの「恩送り(Pay it forward)」を制度化したものである。ただし、現代のそれがしばしば個人の利益最大化を目的とするのに対し、クサロは「共存」と「生存」を目的としている点が決定的に異なる。


第5章:共同体によるケア「アロマザリング」

5.1 「ワンオペ育児」の進化的不自然さ

ニサの物語や!クン・サンの生活記録は、現代日本で社会問題化している「ワンオペ育児」が、人類の進化史的観点から見ていかに「不自然」な状態であるかを浮き彫りにする。彼らの社会では、子育ては母親一人の責任ではない。そこには「アロマザリング(Allomothering)」と呼ばれる重層的なケアのネットワークが存在する。

アロマザリングとは、「母親(Mother)」以外の「他者(Allo)」による養育行動を指す学術用語である。!クン・サン社会では、父親はもちろん、祖母、叔母、年上のきょうだい、さらには血縁関係のない隣人までもが、日常的に乳幼児を抱き上げ、あやし、見守る。

5.2 サラ・ブラファー・ハーディの「共同繁殖」論

進化人類学者サラ・ブラファー・ハーディ(Sarah Blaffer Hrdy)は、著書『Mothers and Others』において、ヒトが他の霊長類と比べて極めて未熟な状態で生まれ、長い依存期間を必要とするにもかかわらず繁栄できたのは、このアロマザリング(共同繁殖)能力を進化させたからだと論じている。

チンパンジーの母親は、子供が離乳するまで決して他者に子供を渡さない。しかし、ヒトの母親は出産直後から他者に子供を委ねることができる。これにより、母親は採集活動で食料を獲得したり、休息を取ったりすることが可能になり、次の出産への準備も早まる。ニサの記録でも、彼女が採集に出ている間、祖母や年上の子供たちが乳児の世話をする様子が描かれている。

5.3 祖母の役割と「おばあちゃん仮説」

特に重要なのが「祖母」の存在である。ヒトの女性が閉経後も長く生きるのは、自ら出産するリスクを冒すよりも、孫の養育を補助することで遺伝子の生存確率を高める方が適応的だったからだとする「おばあちゃん仮説」は、!クン・サンの事例によって強力に支持されている。

ニサ自身も、晩年は孫たちの世話をし、昔話を聞かせる「知恵袋」としての役割を果たしている。彼女の存在は、子供たちにとって母親とは別の「安全基地(Secure Base)」となり、情緒的な安定をもたらしている。

現代社会における保育園、ベビーシッター、地域の子育て支援は、失われた伝統的アロマザリングを現代的な制度として再構築したものと言える。子育ての社会化は、決して「親の責任放棄」ではなく、人類本来の生存戦略への回帰なのである。


第6章:魂の回復と紛争解決「クソトラ」と「ヌム」

6.1 終わらない対話「クソトラ」

平等主義的な社会であっても、人間関係のトラブルは避けられない。不倫、分配への不満、嫉妬。こうした紛争を解決するために彼らが用いるのが、「クソトラ(Xotla)」と呼ばれる公開討論の場である。

問題が発生すると、コミュニティの全員が集まり、何時間も、時には何日もかけて話し合いが行われる。そこでは誰もが発言権を持ち、当事者を批判したり、擁護したりする。重要なのは、議論が「勝ち負け」を決めるためのものではなく、「合意(Consensus)」と「関係修復」を目指すものである点だ。

不満や怒りをすべて吐き出し(venting)、全員が納得するまで話し続けることで、ガス抜きを行う。現代の「修復的司法(Restorative Justice)」に近いアプローチが、そこにはある。

6.2 踊りによる治癒「トランス・ダンス」

さらに深刻なストレスや、身体的な病気に対しては、「ヒーリング・ダンス(Trance Dance)」が行われる。これは宗教的儀礼であると同時に、集団精神療法(Group Psychotherapy)の側面を持つ。

女性たちが手を叩き、複雑なポリフォニー(多声)で歌う中、男性ヒーラーたちは一晩中踊り続ける。彼らは「ヌム(n/um)」と呼ばれる霊的エネルギーを沸騰させ、トランス状態(!kia)に入る。この状態において、彼らは神や精霊と交渉し、病人の体から病を引き抜くとされる。

この儀礼の機能は、コミュニティの一体感を回復させることにある。誰かのために全員が夜を徹して歌い、踊る。その行為自体が、「あなたは一人ではない」という強烈なメッセージとなり、個人の孤独感や不安を解消する。ショスタック自身も、癌の再発に怯える中、ニサたちのダンスによって深い精神的な慰めを得たことを記録している。


第7章:人類学の倫理とポストコロニアルな視線

7.1 フェミニズム人類学の功罪

『ニサ』は、フェミニズム人類学の記念碑的作品として称賛される一方で、ポストコロニアル批評の観点からは複雑な評価を受けてきた。

1970年代、欧米のフェミニズム運動は「家父長制の抑圧」からの解放を叫んでいた。ショスタックは、!クン・サン社会に「女性が抑圧されていないユートピア」の可能性を見出そうとした。彼女はニサの言葉を通じて、女性の強さ、性の自律性、社会的地位の高さを強調した。

しかし、そこには「西洋人の研究者が、先住民女性の声を代弁(represent)する」という権力構造が不可避的に存在する。ショスタックはニサの言葉をテープに録り、翻訳し、西洋の読者が読みやすいように「自伝」として再構成した。その過程で、ニサの言葉の本来の文脈や、翻訳不可能なニュアンスが削ぎ落とされた可能性は否定できない。

7.2 「声」の搾取か、連帯か

また、「ニサ」という名前自体が仮名であり、彼女のリアリティを守るための措置とはいえ、彼女を一人の歴史的主体というよりは、人類学的な「典型(Archetype)」として扱ってしまう危険性もあった。

それでもなお、ショスタックの功績は色褪せない。彼女は自らの主観や感情、ニサとの関係における葛藤(イライラや誤解も含めて)を隠さずに記述した。これは、客観性を装ってきた従来の人類学に対する挑戦であり、「再帰的人類学(Reflexive Anthropology)」の先駆けとも言える。彼女はニサを「研究対象」としてではなく、「教師」として、そして一人の複雑な人間として描こうと誠実に苦闘したのである。


第8章:ニサへの帰還――友情の真実

8.1 癌との闘いと再訪の旅

『ニサ』の出版から約10年後の1989年、ショスタックは乳がんの再発という過酷な運命に直面していた。死の影が忍び寄る中、彼女が求めたのは、かつて自分の人生観を変えてくれたニサとの再会であった。

彼女は化学療法の影響が残る体を押して、再びボツワナへと向かう。この旅の記録『ニサへの帰還(Return to Nisa)』(2000年没後出版)は、若き日のような学術的探求の書ではない。それは、死にゆく者が生の師に教えを乞う、魂の巡礼の記録である。

Return to Nisa

8.2 幻想を超えたつながり

再会したニサは、ショスタックが記憶の中で美化していたような「高潔な賢者」ではなかった。彼女は老いており、気難しく、ショスタックに対して執拗に金銭や物資を要求した。そこには、先進国の富める者と、開発の波に洗われる途上国の貧しい者という、冷厳な経済格差の現実があった。

ショスタックは失望し、苛立つ。しかし、彼女が自らの病状を明かし、弱さをさらけ出したとき、関係は変化する。ニサと村人たちは、ショスタックのために全力でヒーリング・ダンスを踊ったのだ。

ショスタックは記している。「私たちが親友になったとか、家族のようになったというわけではない。ただ、彼女と私は、私がこれまでの人生で持った誰との関係よりも、最も率直(straightforward)なつながりを持っていた」。

完全な理解や、利害を超越した純粋な友情などないかもしれない。しかし、互いの人間性(Humanity)を認め合い、相手の痛みのために祈る瞬間は確かに存在する。ショスタックは1996年に51歳の若さで世を去るが、彼女がニサとの対話から得たこの境地は、分断の進む現代世界において、他者と関わり続けることの希望を示している。


終章:現代社会への処方箋

9.1 サステナビリティと「足るを知る」

!クン・サンの生活は、現代のSDGs(持続可能な開発目標)や脱成長(Degrowth)の議論に対しても、強力な参照点となる。彼らは必要以上の獲物を殺さず、資源を独占せず、常に循環の中で生きている。

「肉の侮辱」は、無限の成長や個人の蓄積を善とする資本主義的価値観に対するアンチテーゼである。成功を個人の能力だけに帰するのではなく、運や環境のおかげであるとし、成果をコミュニティに還元する。この態度は、格差が極限まで拡大した現代社会において、富の再分配やノブレス・オブリージュの精神を再考させるものである。

9.2 吹き渡る風の中で

ニサは言う。「風が私たちの足跡を吹き消し、それで私たちは終わりだ(The wind blows away our footprints, and that is the end of us)」。

!クン・サンの世界観において、死後の世界や個人の永続性は希薄である。しかし、だからこそ彼らは「今、ここ」にある関係性を何よりも大切にする。風に消える足跡のような儚い生を、ダンスと歌、そして終わりのないお喋りで埋め尽くす。

私たち現代人は、強固な石の文明を築き、デジタルデータとして永遠の記憶を残そうとしている。しかし、心の平穏や共同体の温もりといった点において、私たちは果たしてニサたちよりも「豊か」だと言えるだろうか。

マルジョリー・ショスタックが遺した『ニサ』は、単なる異文化の記録ではない。それは、私たちが進化の過程で手放してしまった、しかしDNAの奥底では渇望している「人間としての生き方の技法」を思い出させる、未来への記憶装置なのである。


主要参考文献・引用元

  1. Shostak, Marjorie. Nisa: The Life and Words of a!Kung Woman. Harvard University Press, 1981.
  2. Shostak, Marjorie. Return to Nisa. Harvard University Press, 2000.
  3. Lee, Richard B. “Eating Christmas in the Kalahari.” Natural History, 1969.
  4. Wiessner, Polly. “Hxaro: A Regional System of Reciprocity.” Current Anthropology, 1982.
  5. Hrdy, Sarah Blaffer. Mothers and Others: The Evolutionary Origins of Mutual Understanding. Harvard University Press, 2009.
  6. Edmondson, Amy. “Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams.” Administrative Science Quarterly, 1999.

データテーブル:!クン・サン社会の社会技術と現代への適用

社会技術現地語機能・メカニズム現代社会・組織への適用・示唆
肉の侮辱Insulting the Meat成功者の驕りを防ぎ、平等を維持する。成果を個人の所有にしない。心理的安全性、サーバントリーダーシップ。成果主義の弊害(分断)を防ぐチームビルディング。
クサロ交換Hxaro遅延的・非等価な贈与による広域ネットワークの維持。リスク分散。ソーシャルキャピタル、弱いつながりの強さ。短期的な利益(テイカー)ではなく長期的信頼(ギバー)の重視。
アロマザリングAllomothering母親以外(祖母、きょうだい、隣人)による共同保育。チーム育児、保育の社会化。ワンオペ育児の解消と、地域コミュニティによるケアの再構築。
クソトラXotla全員参加の長時間討論による紛争解決。ガス抜きと合意形成。修復的司法(Restorative Justice)、対話型組織開発。法的決着よりも納得感と関係維持を優先する。
トランス・ダンスn/um Chai集団的儀礼によるトランス状態とヒーリング。社会的緊張の緩和。ウェルビーイング、アートセラピー。集団的なストレスケアと所属感(Belonging)の醸成。

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投稿者

  • 文化人類学者|社会人類学・アクターネットワーク理論

    • 早稲田大学大学院博士課程に在籍中、インドネシアとシンガポールへの留学を経て、文化・社会人類学の研究手法を体得。現在もフィールドワークを重視する研究者として活動。
    • 研究テーマは、東南アジアの国際移民研究から、BBCやNHKのドキュメンタリー番組制作過程の民族誌的研究、沖縄・韓国・マレーシアの民俗服飾の比較研究へと展開。近年は、伝統染織「読谷山花織」を事例に、市場的価値と社会的価値が織りなすネットワークの中で、いかに持続可能な発展が実現されるのかを追究している。
    • 特筆すべきは、コロナ禍でキャリアコンサルタント国家資格を取得した点。人類学者としての視座とキャリア支援の実践知を統合し、沖縄の伝統産業における技能継承や後継者育成の研究にその知見を活かしている。学問と社会をつなぐ姿勢は、リベラーツの理念にも通底する。
    • 主な著書:
      『シンガポール:多文化社会を目指す都市国家』
      『戦後アジアにおける日本人団体』
      『イスラーム事典』

     

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