「思考のOS」を鍛える、人類学・民族誌の名著
知的好奇心旺盛なビジネスパーソンの皆様。日々の業務において、「完璧な事業計画を立てたはずなのに、現場が全く動かない」「最新の管理システムを導入したのに、イレギュラーな事態が起きると途端に組織が機能不全に陥る」といったモヤモヤを抱えたことはありませんか?私たちは、KPI(重要業績評価指標)やコンプライアンスといった「公式なルールとシステム」に強く依存する社会を生きています。しかし、現実のビジネスは想定外の連続です。
今回私たちが読み解くのは、アメリカの都市社会学者アブドゥマリク・シモーヌによる名著『For the City Yet to Come: Changing African Life in Four Cities(これからやってくる都市のために:4つの都市におけるアフリカ人の生活の変容)』です。
一見すると、アフリカの都市論が私たちのビジネスと何の関係があるのかと疑問に思われるかもしれません。しかし、インフラが崩壊し、不確実性に満ちたアフリカの都市で人々がしたたかに生き抜く姿を描いた本書は、ガチガチのシステム管理が限界を迎えている現代の日本企業において、「しなやかで強靭な組織(レジリエンス)」を取り戻すための、極めて実践的な「思考のOS」**を提供してくれます。
それでは、西洋の常識を覆したこのスリリングな学術書の世界へ、ご案内しましょう。
【第1章】著者紹介:なぜ著者はこの問いを立てたのか?
著者の**アブドゥマリク・シモーヌ(AbdouMaliq Simone)**は、都市社会学および地理学の第一人者であり、ポストコロニアル都市論(西洋中心主義を脱却した都市研究)を牽引するニューヨーク社会調査学院の教授です。彼の研究スタイルは、マクロな統計データや上空からの都市計画図に頼るのではなく、アフリカや東南アジアの路上に自ら立ち、人々の泥臭い生活の実態を参与観察するという、人類学的なアプローチに特徴があります。
著者の問題意識の原点は、2000年代初頭の西洋社会がアフリカの都市に向けていた「冷たい視線」に対する強烈な違和感でした。当時、西洋の政策立案者や国際機関の多くは、道路が未舗装で停電が頻発し、公式な行政が機能していないアフリカの都市(ダカール、ドゥアラ、ヨハネスブルグ、ジッダなど)を見て、**「これらは失敗した都市である」**と切り捨てていました。
しかし、シモーヌは問います。「もし本当に失敗しているのなら、なぜ何百万もの人々がそこで複雑な社会を営み、日々を生き延びているのか?」
彼は、西洋的な「あるべき近代都市の姿」を基準にしてアフリカの「欠如」を数え上げるのではなく、**「物理的なインフラがない環境で、人々は『何』を頼りに社会を回しているのか?」**という問いを立てました。この探求の姿勢は、私たちに大きな示唆を与えます。私たちは職場で「予算がない」「人が足りない」「システムが古い」と欠如ばかりを嘆きがちですが、シモーヌの視点を持てば、手持ちのカードがない状況から、いかにしてインフォーマルなネットワークで価値を創出するかという、イノベーションの本質に目を向けることができるのです。
【第2章】学習のポイント:この本から「インストール」できる3つの視点
本書を読むことで、あなたの思考は次のようにバージョンアップされます。
- 「欠如」を「創造の源泉」として捉える視点物理的なインフラや公式な支援がない状況を「絶望」と捉えるのではなく、既存のルールに縛られずに新しい結びつきを生み出す「余白」として捉える視点です。予算やリソースが限られた新規事業において、逆境をバネにする思考回路が身につきます。
- 「公式なシステム」と「非公式なネットワーク」の複雑な関係性を読み解く力組織図(公式)通りに仕事が進むことは稀です。本書を読むことで、会社のシステムを補完し、時にそれを迂回してプロジェクトを成功に導いている「給湯室での雑談」や「部署を越えた個人的な信頼関係(非公式)」の真の価値とダイナミズムを読み解く力が養われます。
- 不確実性を乗りこなす「アジャイルな組織論」への応用綿密な長期計画(マスタープラン)がすぐに陳腐化する現代において、現場の状況に合わせて即興的に対応していくアフリカの都市住民の実践は、まさにアジャイル(俊敏)な意思決定の極意です。変化を恐れず、変化を乗りこなすリーダーシップのヒントがここにあります。
【第3章】3つのキーコンセプト:社会の「見えざる構造」を暴く
本書の核心であり、現代の組織を分析するための強力な理論的ツールとなる3つのキーコンセプトを解説します。
キーコンセプト1:人々をインフラとして(People as Infrastructure)
シモーヌの代名詞とも言える最も重要な概念です。道路、水道、通信網といった「物理的インフラ」が欠如、あるいは崩壊している環境において、人々の間の緊密なつながり、非公式な協力関係、情報のやり取りそのものが「都市を機能させるインフラ」として代替・機能している状態を指します。「今日はうちの電気が止まったから、お前の店で商品を預かってくれ」といった、柔軟で即興的な助け合いのネットワークです。企業においても、システム障害や前例のないトラブルが起きた時、最終的に事態を収拾するのは「他部署にいる顔の広いあの人への一本の電話」であったりします。まさに人間同士の結びつきが、最強のインフラなのです。
キーコンセプト2:都市のインフォーマリティ(Urban Informality)
行政のマスタープランや公式な法律に縛られない、人々の自発的で流動的な経済活動や生活様式のことです。路上の物売りや、許可を得ていない居住区など、西洋の視点からは「正規のシステムからこぼれ落ちた例外(エラー)」と見なされる領域です。しかし本書は、このインフォーマリティこそが、硬直化した公式システムを補完し、都市を駆動させる「メインエンジン」であることを証明しました。ルールで縛りすぎた組織が活力を失うのと同じように、インフォーマルな活動を許容する「遊び」がシステムには不可欠なのです。
キーコンセプト3:ブリコラージュ(Bricolage)
「寄せ集めの創造」や「ありあわせの道具でなんとかする」という実践的な知恵を指します。完璧な環境や専用のツールが与えられるのを待つのではなく、今そこにあるガラクタや限られた人間関係を即興的につなぎ合わせ、その場をしのぎ、新たな価値を生み出していく行為です。変化が激しく、完璧な準備など不可能な現代のビジネス環境において、この「現場の即興力(ブリコラージュ)」こそが、不確実性を生き抜くための最も重要なスキルと言えます。
【第4章】重要語句の解説
本書の理解をさらに深め、学術的な背景を把握するための4つの重要語句を解説します。
重要語句1:グローバル・サウス(Global South)
主に南半球に位置する、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの新興国・途上国の総称です。単なる地理的な分類ではなく、西洋中心のグローバル資本主義の中で、経済的・政治的に周縁化されてきた地域というニュアンスを含みます。本書は、グローバル・サウスから発信される独自の論理を高く評価しています。
重要語句2:空間的エージェンシー(Spatial Agency)
都市空間の中で、人間が単に環境に支配される受け身の存在ではなく、自らの意思と行動によって空間の意味や機能を書き換え、主体的に作り変えていく力(エージェンシー)のことです。スラムの路地が、住民の工夫によって活気ある市場へと変貌する力などがこれに当たります。
重要語句3:構造調整プログラム(SAP: Structural Adjustment Programs)
1980年代以降、IMFや世界銀行がアフリカ諸国等に融資の条件として課した経済政策です。市場原理の導入や公的部門の民営化、福祉の削減を強要しました。この結果、国家による公式なインフラ整備が後退し、人々はインフラとしてのネットワークに頼らざるを得なくなったという背景があります。
重要語句4:規範的都市計画(Normative Urban Planning)
「都市とはこうあるべきだ」という西洋の近代的な理想像に基づき、上意下達(トップダウン)で設計される都市計画のことです。シモーヌは、この机上の空論のような計画が、現場の複雑なリアリティと衝突し、結果的に人々を排除していると批判しました。
【第5章】本書の評価:なぜ今、この古典を読む価値があるのか
本書は2004年の出版以来、都市社会学、人文地理学、文化人類学の分野において、グローバル・サウスの都市研究における**パラダイムシフト(価値観の劇的な転換)**を起こした記念碑的著作として高く評価されています。「人々をインフラとして」という概念は、その後数多くの学術論文で引用され、都市を見る際の標準的なフレームワークの一つとなりました。
出版から年月が経過した現在、本書が「古典」として持つアクチュアル(現代的)な価値は、皮肉なことに、高度にシステム化された先進国においてこそ高まっています。現代社会は、スマートシティやAIによる管理、アルゴリズムによる最適化など、すべてをデータとシステムで統制しようとしています。しかし、システムが高度化するほど、一つのバグや予期せぬパンデミックのような事態に対して社会は極めて脆弱になります。
本書は、**「究極のレジリエンス(回復力)は、完璧なシステムの中ではなく、泥臭い人間のネットワークの中にある」**という真理を突きつけます。効率化の行き着く先で組織の縦割りが進み、孤独やコミュニケーション不全に悩む現代のビジネスパーソンにとって、本書が提示する「インフォーマリティの復権」は、人間らしい働き方と組織の活力を取り戻すための強烈なアンチテーゼとして響くのです。
【第6章】必要な関連情報:物語の背景を知る
シモーヌの議論を深く理解するためには、彼がフィールドワークを行った1990年代後半から2000年代初頭にかけてのアフリカの特異な社会状況を知る必要があります。
当時の多くのアフリカ諸国は、前述した「構造調整プログラム」の影響により、国家の財政が破綻状態にあり、公務員のレイオフ(解雇)や公共サービスの民営化が急激に進んでいました。政府は、市民に対して電気、水道、医療、教育といった基本的なインフラを提供することを事実上放棄(あるいは縮小)せざるを得ない状況に追い込まれていました。
つまり、シモーヌが描いた「人々がインフラとして機能する」世界は、自然発生的なユートピアではなく、**「国家が撤退した後の残酷な空白地帯」**において、人々が生き残るために必死に編み出したサバイバル戦略の産物なのです。
この背景を知ることで、「人間関係が豊かで素晴らしい」という表面的な賞賛を超えて、「制度的なセーフティネットが失われた時、人間は自らの身体と関係性をインフラ化してでも生き抜こうとする」という、人間の恐るべき執念と強靭さを読み取ることができます。
【第7章】最新の研究動向との接続
シモーヌが提示した「人々をインフラとして(People as Infrastructure)」という概念は、出版地の英語圏の学術界を中心に、現在でもダイナミックな発展を遂げています。
近年、海外の学術データベースで最も注目を集めているのは、プラットフォーム・エコノミー(ギグ・エコノミー)における概念の応用です。UberやDeliverooといったテクノロジー企業は、自社で車両(物理的インフラ)を所有せず、アルゴリズムを通じて無数の独立した労働者(ギグワーカー)をネットワーク化することで事業を成立させています。都市社会学の研究者たちは、これを**「テクノロジーによって再編成された現代版の『インフラとしての人間』である」**と分析しています。シモーヌ自身も近年の論文でこのデジタル化されたインフラについて言及しており、理論は常にアップデートされています。
また、現代の日本社会に目を向けると、テレワークの普及による「オフィスの消失」と「コミュニケーションの希薄化」が深刻な課題となっています。公式な会議(システム)はオンラインで効率化されましたが、その反面、雑談や偶発的な出会い(インフォーマリティ)が失われ、イノベーションが生まれにくくなったと指摘されています。
日本の経営学や組織論の研究においても、「いかにして組織内に意図的に『インフォーマルなネットワーク(インフラとしての人間)』を再構築するか」が急務の課題とされており、シモーヌの問題意識は、現代日本のオフィス街のど真ん中と強烈にリンクしているのです。
【第8章】参考文献リスト:さらなる探求のために
本書のテーマである「インフォーマルなネットワーク」や「都市のあり方」をさらに深く理解し、自らのビジネスや思考に応用するための日本語書籍と、本記事の執筆において参照した英語圏の学術情報をリストアップします。
【日本語で読めるおすすめ書籍】
- 小川さやか『「その日暮らし」の人類学――もう一つの資本主義経済』(光文社新書)タンザニアの零細商人の調査を通じ、彼らがいかにして不確実性を乗りこなし、したたかなネットワークを築いているかを描いた名著。本書の理解を大いに助けてくれます。
- 松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)市場経済の「公式なルール」からこぼれ落ちる、人間同士の贈与や関係性の価値について、優しくも鋭く問いかける一冊。
- ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会)上からの近代都市計画を痛烈に批判し、路上の多様性と人々のネットワークこそが都市の命であると説いた、都市論の永遠の古典。
- 入山章栄『世界標準の経営理論』(ダイヤモンド社)ビジネスの視点から。特に「ソーシャルネットワーク理論」や「弱いつながりの強さ」の章は、シモーヌの理論を企業組織に翻訳する上で非常に役立ちます。
- 広井良典『ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来』(岩波新書)無限の成長を前提としたシステムが限界を迎える中、コミュニティや人間関係という「インフラ」の再構築を論じた一冊。
【本記事の構成において参照した学術文献(英語)】
- Simone, AbdouMaliq. For the City Yet to Come: Changing African Life in Four Cities. Duke University Press, 2004.
- Simone, AbdouMaliq. “People as Infrastructure: Intersecting Fragments in Johannesburg.” Public Culture, 2004.
- Lancione, Michele. “The Micropolitics of the Urban.” Urban Geography, 2019.
いかがでしたでしょうか。アブドゥマリク・シモーヌの『For the City Yet to Come』は、私たちが無意識に縛られている「計画」や「システム」の呪縛を解き放ってくれます。
明日、職場でトラブルが起きてシステムが止まった時。あるいは、完璧なマニュアルが役に立たなくなった時。どうか焦らずに、あなたの周りにいる「インフラとしての人間」に目を向けてみてください。その泥臭いつながりこそが、あなたを不確実な世界で導く、最強のコンパスとなるはずです。



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