越境するビジネス人類学:データが語らない「意味」を読む
こんにちは。リベラルアーツのeスクール「リベラーツ」で伴走者を務めています、文化人類学者の「いとばや」です。
日々の業務の中で、「完璧なデータと論理で提案したはずなのに、なぜか現場が動かない」「KPI(重要業績評価指標)を達成しても、チームに疲弊感ばかりが漂っている」……そんなもどかしさを感じたことはありませんか?
特に、チームを牽引する立場になる30代から、組織全体の構造的な課題に直面し始める40代。実績とキャリアを重ねた50代と、私たちは「正解のない問い」にぶつかります。私自身、大学で長く教鞭をとり、また「国家資格キャリアコンサルタント」として多くの社会人の方々とお話しする中で、これまでの成功方程式が通用しなくなった現代の職場で、深い悩みを抱える方々に数多く出会ってきました。
そんな中、ビジネスの最前線で今、静かに、しかし確実に注目を集めている学問があります。それが「人類学」です。
今回からスタートする全21回の新連載『越境するビジネス人類学:ビジネスの「内」と労働の「外」を繋ぐ21の視座』では、現代の複雑な資本主義社会を読み解くための「知の武器」としての人類学をご紹介していきます。
第1回目となる今回は、「データが語らない『意味』をどう読むか?」をテーマに、なぜ今、ビジネスと労働の領域で人類学的視座が求められているのか、その全体像をマッピングしていきましょう。
1. はじめに:なぜシリコンバレーもEUの活動家も「人類学」に注目するのか
「人類学」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか?
おそらく多くの方が、遠く離れたジャングルの奥地や未開の部族を観察する、古めかしい学問を想像されたかもしれません。
しかし現代において、人類学者の「フィールド(調査地)」は、アマゾンの熱帯雨林から、シリコンバレーの巨大テック企業や、ロンドンの金融街(シティ)へと大きく広がっています。
なぜ、最先端のビジネスシーンで人類学が求められているのでしょうか。
それは、ビッグデータや合理主義的モデルの限界が露呈してきたからです。
現代のビジネスは、膨大なデータを瞬時に解析できるようになりました。データは「何が起きているか(What)」を正確に教えてくれます。しかし、「なぜ起きているか(Why)」や「そこにどんな意味があるのか(Meaning)」までは語ってくれません。
イギリスの経済紙『フィナンシャル・タイムズ』の編集長であり、自身も人類学の博士号を持つジリアン・テットは、著書『Anthro-Vision(アンソロ・ビジョン)』の中で、現代のビジネスエリートたちが陥りがちな「トンネル・ビジョン(視野狭窄)」の危険性を指摘しています。数字やスプレッドシートの枠内だけで世界を見ようとすると、人間の非合理な感情や、見えない文化的文脈、そして社会の底流にある「社会的沈黙(誰も語らないが皆が従っている暗黙のルール)」を見落としてしまうのです。

Anthro-Vision: A New Way to See in Business and Life 2021
学び直しを検討されている社会人の方々から、「今のスキルだけでは将来が不安だ」「もっと本質的な教養を身につけたい」という声をよく聞きます。まさにこの「リベラルアーツの意味」を問う動きこそが、表面的なハウツーではなく、人間と社会の根源的なメカニズムを理解しようとする知的な探求なのです。
現在、この人類学のアプローチには、大きく二つの強力な潮流が存在します。
一つは、システムの内側からイノベーションを起こそうとする米英圏の「ビジネス人類学(Business Anthropology)」。 もう一つは、システムの外部から現代資本主義の構造的矛盾を問うEU圏の「労働の人類学(Anthropology of Labour)」です。
一見すると相反するように見えるこの二つの潮流は、実は現代の働く私たちにとって、車の両輪のような関係にあります。
2. 米英圏の潮流:システムの内側から変革する「ビジネス人類学」
まず一つ目の潮流、米国や英語圏を中心に発展してきた「ビジネス人類学(Business Anthropology)」を見ていきましょう。
これは、企業組織や市場の「内部」に入り込み、人類学の最大の武器である「エスノグラフィ(参与観察)」を用いて、イノベーションの創出や組織文化の変革を促すアプローチです。
例えば、インテル(Intel)やマイクロソフト(Microsoft)といった巨大IT企業は、何十人もの人類学者を社内に抱えています。彼らは単なるマーケティング・リサーチではなく、「人々はテクノロジーとどのように付き合い、どのような意味を見出しているのか」を文化的な文脈から探求しています。
また、巨大な歴史を持つゼネラル・モーターズ(GM)で20年間にわたり活動した人類学者のエリザベス・K・ブリオディ(Elizabeth K. Briody)は、トップダウンの経営改革がなぜ現場で頓挫するのかを、組織の「部族(トライブ)」的な対立や、公式の組織図には載らない「インフォーマルな人間関係」から解き明かしました。

エリザベス・K・ブライオディ(Elizabeth K. Briody):ゼネラルモーターズ(GM)の研究部門でシニア・リサーチ・サイエンティストおよびテクニカル・フェローとして長年キャリアを築いた後、コンサルティング会社 Cultural Keys LLC を設立しました。『Cultural Change from a Business Anthropology Perspective』(2018年)
『The Cultural Dimension of Global Business』(2017年)。企業や組織の文化的な課題を診断し、業務効率や組織の有効性を高める支援を行っています。
皆さんの職場でも、こんな経験はありませんか?
「他部署との連携がうまくいかない」「新しいシステムを導入したのに、誰も使ってくれない」。
これらは単なる業務プロセスの問題ではなく、部署ごとに異なる「文化」や「言語」、つまり意味の体系の衝突なのです。
私自身、長年アクターネットワーク理論(人とモノがどのようにつながり合って社会を動かしているか)を専門とし、沖縄・韓国・マレーシアのアジアの伝統産業の現場を歩いてきました。沖縄の織物工房であれ、東京のIT企業であれ、そこにあるのは血の通った人間同士、そして人間と道具との「ご縁」のネットワークです。
ビジネス人類学は、この「サイロ化(縦割り)」された組織を、全体的(ホリスティック)な視点から繋ぎ直す力を持っています。目の前の課題を単一の要因に還元するのではなく、ネットワーク全体から捉え直すこと。これは、複雑な利害関係を調整しながらプロジェクトを進めるミドルマネジメント層にとって、極めて実践的な武器となります。
3. EU圏の潮流:システムの外部から構造を問う「労働の人類学」
一方、ヨーロッパを中心に勃興しているのが、二つ目の潮流である「労働・経済の人類学(Anthropology of Labour / Economic Anthropology)」です。
ビジネス人類学がシステムの内側からの最適化を目指すのに対し、こちらはシステムの「外部」から、グローバル資本主義がもたらす構造的な暴力や、不安定な労働(プレカリティ)、そして価値の搾取を鋭く告発します。
皆さんは、デヴィッド・グレーバーという人類学者の名前を聞いたことがあるかもしれません。彼の著書『ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)』は世界的なベストセラーとなりました。「自分の仕事は、世の中に何の役にも立っていないのではないか?」——そんな現代のホワイトカラーが抱える密かな絶望を、グレーバーは痛烈に言語化しました。

Bullshit Jobs: A Theory 2018
キャリアの節目において、「このまま今の会社で働き続けて、私の人生にはどんな意味があるのだろう?」と立ち止まる方は少なくありません。
EU圏の労働の人類学は、まさにこの「私たちが働く意味」を根底から問い直します。
スペインの人類学者スサナ・ナロツキー(Susana Narotzky)は、資本が利潤を蓄積するための「労働(Labour)」と、私たちが人間としての尊厳を保ち、生を営むための「営み(Work)」を明確に区別すべきだと主張しています。

NEW DIRECTIONS IN ECONOMIC ANTHROPOLOGY 1997
私たちの生活は、会社で給料をもらう時間だけで成り立っているわけではありません。家事、育児、介護、地域コミュニティでの活動といった「社会的再生産」の領域(賃金が支払われない無償の労働)がなければ、資本主義経済そのものが回らないのです。
効率化やグローバル化という名の下で、人間が単なる「リソース(資源)」や「コスト」として切り詰められていく現代。なぜこれほどまでに社会に閉塞感が漂い、世界中で分断やポピュリズムが台頭しているのか。労働の人類学は、Excelの数字には表れない「尊厳の剥奪」という視点から、その深層メカニズムを解明しようとしています。
自社のビジネスが、社会の基盤(ベース)を豊かにしているのか、それとも食いつぶしているのか。SDGsやパーパス経営が声高に叫ばれる今、リーダー層には、このシステム外部からのマクロな批判的視座が不可欠です。
4. 本連載のロードマップ:現代資本主義の立体像を描く
ここまで、ビジネスの「内」に入るアプローチと、「外」から問うアプローチを見てきました。一見すると、この二つは水と油のように思えるかもしれません。
しかし、この連載でお伝えしたい最も重要なメッセージは、ビジネス(企業活動)と労働(生活者の営み)は、「人間の営み(文化・社会構造)」として根底で深く繋がっているということです。

【図解の補足:二つのアプローチを統合するフレームワーク】
ここで、この二つの人類学的視座をどのように組み合わせるのか、少し整理してみましょう。
- 内部へ入り込む「ビジネス人類学」: 組織文化やデザイン、消費者行動といった企業の「中」に入り込み、現場の協働を通じて、価値がどのように設計され、組織化されるか(価値創出)を実践的に探求します。
- 外部から照射する「労働の人類学」: 移民労働やプレカリティ(不安定な生活)、社会的再生産(家事やケア)といった企業の「外」から、その価値が誰から、どのような条件で生み出されているか(価値抽出)を歴史的・批判的に問い直します。
結論から言えば、この二つの領域は対立するものではありません。現代のビジネスリーダーが直面する「ESG(環境・社会・ガバナンス)対応」、「グローバルなサプライチェーンの倫理」、「AIや自動化による労働環境の変化」といった複雑な課題は、この「組織内部の実践(内側からの意思決定)」と「外部化された労働条件」を同時に、両側から挟み撃ちにして分析することで初めて、本質的な構造が見えてくるのです。
企業文化を内側から変革しようとする試みも、外部から搾取の構造を告発する視点も、どちらも「データが語らない人間のリアルな姿」を捉えようとする人類学の挑戦に他なりません。この二つの視座(アンソロ・ビジョン)を統合的に行き来することで初めて、私たちは現代資本主義の「立体像」を描き出し、倫理的かつ効果的なアクションを起こすことができるのです。
全21回にわたる本連載では、厳選された20の重要文献と研究者の知見をナビゲートしながら、社会と経済の深層を読み解いていきます。今後の旅の道標として、主要なテーマを少しだけご紹介しましょう。
【第1部:米英圏の「ビジネス人類学」〜組織・市場の内部からの変革〜】
第1部では、主に企業や市場の「内側」に入り込みます。
- 組織の「見えない文化」を解読する: 1930年代の工場における「ホーソン実験」から始まり、巨大企業で働く人々の「サボタージュ」や「カフェでの雑談」が、実は合理的な生存戦略や問題解決(センスメイキング)の場であったことを紐解きます。
- イノベーションと「厚いデータ」: インテルやマイクロソフトがなぜ人類学者を重用するのか。ビッグデータでは捉えきれない消費者の潜在的な欲望や、テクノロジーがもたらす「意味」をどう読み解くかを探求します。
【第2部:EU圏の「労働・経済の人類学」〜システムの外部から問い直す〜】
第2部では、視点を反転させ、資本主義のシステムを「外側」から批判的に見つめ直します。
- 「価値」と「ブルシット・ジョブ」: デヴィッド・グレーバーの理論を手がかりに、「なぜ社会に役立つ仕事ほど給料が低く、無意味に思える仕事が高給なのか」という現代のタブーに切り込みます。
- グローバル化の裏側とコミュニティ: 華やかなITアウトソーシングの裏にある新たな階層化や、不安定な労働(プレカリティ)の実態。そして、企業の利益追求(市場)が、私たちの生活の基盤(ベース)といかに緊張関係にあるかを考察します。
AIが瞬時に「正解らしきもの」を提示する時代。だからこそ、私たち人間に残された最大の価値は、自らの経験をもとに本質的な「問いを立てる力」です。連載を通じて、皆さんとともにこの「問い」を磨いていきたいと思います。
おわりに:あなたの「知の冒険」の始まり
「なんだか難しそうだな……」と思われた方もご安心ください。
人類学は、決して象牙の塔に引きこもる学問ではありません。皆さんが日々職場で感じている違和感や、満員電車で感じるため息、ふとした瞬間に感じる「このままでいいのか」という想い。それらすべてが、人類学的な探求の立派な出発点になります。
社会人向けのオンライン講座として設計された私たちのeスクール「リベラーツ」は、「〜ねばならない」という義務感から解放された、知の遊び場です。皆さんのこれまでの社会人経験こそが、最高の教科書になります。
データだけでは見えない、あなたの職場の「社会的沈黙」は何ですか?
自社の業務は、社会の基盤を豊かにしているでしょうか?
次回(第2回)は、ビジネス人類学の歴史を紐解き、1930年代の工場に人類学者が潜入した「ホーソン実験」から、この分野がいかにして生まれたのかを探求します。どうぞご期待ください!
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データが語らない「なぜ」を読み解く。ビジネス人類学の視座(Anthro-Vision)を手に入れる
「完璧なデータと論理で提案したのに、現場が動かない」 「KPIは達成しているのに、チームに疲弊感が漂っている」
現代のビジネスが抱えるこうしたモヤモヤは、数字やスプレッドシートの枠内だけで世界を見る「トンネル・ビジョン(視野狭窄)」が原因かもしれません。
本講座では、人類学の最大の武器である「エスノグラフィ」と「厚い記述」の視点を用い、表層的なデータでは見えない消費者の「意味の網の目」や、公式組織図の裏側で機能する現場の「実践知(センスメイキング)」を解読します。
【講義内容(各4週間 ゼミナール)】
・第1回:ビジネス人類学とは何か?〜「Anthro-Vision」の獲得〜
・第2回:消費者と市場の人類学〜「WEIRD」な視点を疑う〜
・第3回:組織の人類学〜公式ヒエラルキーの裏側にある「実践知」〜
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