沖縄・琉球の知恵
1. 主のいない城 ― 「保存」という名の「改変」
1879年3月、最後の国王・尚泰(しょうたい)が首里城を明け渡した時、それは琉球という国家の「死」を意味していました。
軍営から廃墟へ、そして解体の危機
明治政府に接収された首里城には、当初、熊本鎮台の分遣隊(日本軍)が駐屯しました。かつての王宮は兵舎となり、御庭(うなー)では兵士の訓練が行われました[真栄平 2013]。 1896年に軍が撤退すると、城は首里区(現・那覇市)に払い下げられましたが、財政難の自治体には広大な木造建築を維持する余力はありませんでした。建物は荒れ果て、正殿は崩壊寸前となり、ついに1923年(大正12年)、「解体」が決まりました[伊東 1942]。
起死回生の「神社化」
この危機を救ったのが、建築家・伊東忠太や鎌倉芳太郎らでした。彼らは内務省に働きかけ、正殿を「沖縄神社」の拝殿として保存するというウルトラCの策を実現させました。 これにより、1925年、首里城正殿は「国宝(当時の旧国宝)」として保存されることになりました。しかし、これは単なる保存ではありませんでした。
大龍柱の「向き」が変わった日
この「神社化」のプロセスで、ある重大な改変が行われた可能性が高いことが、近年の研究で明らかになっています。それが「大龍柱の向き」です。
後田多敦(神奈川大学)の研究によれば、1877年(琉球国末期)の写真では、正殿前の大龍柱は「正面」を向いていました。明治・大正期の写真でも正面向きです。 しかし、1933年(昭和8年)の昭和修復(沖縄神社化)完了後の写真では、龍は「向き合う(相対)」形に変わっています[後田多 2021]。
これは、神社の「狛犬(こまいぬ)」の配置に倣って、人為的に向きが変えられた「改変」だったと考えられます。皮肉なことに、「保存」のための修復工事が、歴史的な「真正性(オーセンティシティ)」を書き換えてしまったのです。
2. 聖地から「祭り」の広場へ ― 断絶と連続
首里城が「沖縄神社」になったことは、琉球古来の信仰にとっては決定的な「断絶」でした。しかし、それは同時に、新しい「連続」を生み出す契機でもありました。
閉ざされた聖域からの解放
王国時代、首里城は庶民が容易に立ち入れない場所でした。しかし、神社となったことで、皮肉にも城門は広く市民に開放されました。 宗教学者の及川高は、昭和初期に行われた「県社祭(沖縄神社祭)」に注目しています。 毎年10月に行われたこの祭りでは、露店が立ち並び、舞台では琉球舞踊や空手、芝居が披露されました。かつての厳粛な王城は、庶民が娯楽を楽しむ賑やかな「広場」へと変貌したのです[及川 2023]。
記憶の身体化
当時の少年は回想します。「首里王城をいただき、首里王城に対し感謝の気持ちを心より示している」と[及川 2023]。 形式的には、天皇を中心とする国家神道への統合(同化政策)でしたが、庶民の感覚としては、初めて首里城という空間を「自分たちの場所」として身体的に経験する機会となっていました。この「楽しい祭りの記憶」こそが、戦後の首里城復興の精神的な基盤となっていきます。
3. 鉄の暴風と「白い廃墟」 ― ゼロからの出発
1945年、沖縄戦。 首里城の地下には、日本軍第32軍の司令部壕が構築されました。 「王城」は「軍事要塞」となり、それゆえに米軍の徹底的な艦砲射撃と空爆の標的となりました。
消失した風景
5月、米軍の攻撃により首里城は炎上。国宝・正殿も、尚家伝来の宝物も、すべて灰燼に帰しました。 首里出身の真栄平房敬は、戦後、故郷に戻った時の風景をこう記しています。 「一面真っ白な瓦礫と化した首里城に、米軍の星条旗が翻っていた」「あの荒涼とした寒風が吹く廃墟の町を見た者にとっては、首里城の復元される時代が、己れの生きているうちに到来しようとは、夢想だにできなかった」[真栄平 2013]。
美しかった緑の都は、「白い廃墟」となり、その跡地には1950年、琉球大学が建設されました。首里城は物理的に消滅したのです。
4. 建物なき「復元」 ― 住民が演じた歴史
しかし、城が消えても、人々の記憶から「首里城」が消えることはありませんでした。
「首里文化祭」と古式行列
1968年、まだ米軍統治下で琉球大学が城跡にあった頃、地元住民の手によって「首里文化祭」が始まりました。 そして1970年代には、琉球国王の行列を再現する「古式行列」が開始されます。興味深いのは、この時点ではまだ「城」が存在していないことです。 人々は、手作りの衣装をまとい、かつての行列を再現することで、「心のなかの首里城」を先に復元しようとしたのです[及川 2023]。
及川は、この戦後の祭りが、戦前の「県社祭」の記憶(賑わいや芸能奉納)を無意識に継承していると指摘します。 物理的な建物(ハード)が失われている間、人々をつないだのは、祭りというパフォーマンス(ソフト)でした。
5. 平成の復元、そして令和の再建へ
1972年の本土復帰後、琉球大学の移転が決まり、ついに国家プロジェクトとして首里城の復元が動き出します。
「1712年」という基準点
1992年に完成した「平成の復元」では、1712年に再建され、戦前まで残っていた正殿をモデルとすることが決まりました。 しかし、資料不足は深刻でした。詳細な設計図は残っておらず、頼りになったのは、大正・昭和期に行われた修理の記録や古い写真、そして鎌倉芳太郎が残した『寸法記』(1768年)などの断片的な資料でした[内閣府 2022][宮本 2020]。
この時、あの大龍柱の向きも議論になりましたが、最終的には1768年の『寸法記』の絵図に基づき、「向き合う(相対)」形で復元されました。これは、「昭和の改変」以前の姿(正面向き)とは異なる判断でしたが、当時は「絵図=王府の理想」を優先したのです[後田多 2021]。
2019年の火災と「見せる復興」
そして2019年10月31日、正殿は再び炎に包まれました。 しかし、今回の喪失は、1945年のそれとは決定的に異なります。私たちには、平成の復元で培った「データ」と「技術」、そして何より「再建への意志」があります。
現在進められている「令和の復元(2026年完成予定)」では、「見せる復興」がテーマに掲げられています。 ガラス張りの仮設施設で、焼け残った大龍柱の補修作業を公開したり、がれきから瓦を選別するボランティア活動を行ったりと、復元のプロセスそのものを観光資源とし、人々が関与できる物語にしています[内閣府 2022][宮本 2020]。
再び問われる「真正性」
今回の復元では、大龍柱の向きについて、再び熱い議論が交わされました。 最新の研究(後田多敦ら)により、琉球国末期(1877年)には「正面向き」であったことが確実視されています。 しかし、技術検討委員会は、今回も「平成の復元を踏襲する(1712年〜1768年頃をモデルとする)」として、「向き合う形」での再建を決定しました。 これは、「写真に残る現実(近代)」よりも、「資料に残る理想(近世)」を優先するという、高度な歴史的判断です。
経験との接続(実践的視点)
この「喪失と再生」の歴史は、現代の組織やコミュニティにも通じる教訓を含んでいます。
- 「ハコ」がなくても「コト」は起こせる: 戦後の首里の人々は、城(建物)がない状態で、祭り(ソフト)によってコミュニティのアイデンティティを再確認しました。あなたの会社やチームで、オフィスや予算といった「物理的な基盤」が揺らいだとき、メンバーをつなぎ止める「祭り(共有体験)」は何でしょうか?
- 「真正性」は選択である: 大龍柱の向きの議論が示すように、過去の復元は「事実の再現」ではなく「ある時点の選択」です。私たちが自社の歴史や個人の過去を語るときも、無意識に「どの時点の自分」を「本当の自分」として選んでいるかを自覚的になる必要があります。

参考文献
- 内閣府沖縄総合事務局国営沖縄記念公園事務所(2022)「首里城復元に向けた技術検討について」.
- 及川高(2023)「沖縄神社県社祭と首里城 —祭りをめぐる連続と断絶—」『宗教と社会』29: 107-121.
- 後田多敦(2021)「首里城正殿大龍柱の向きの検討 ―近代における大龍柱『改変』史から―」『非文字資料研究』23: 137-160.
- 真栄平房敬(2013)『首里城物語』おきなわ文庫(初版1989年、ひるぎ社).
- 宮本聖二(2020)「焼け落ちた首里城 復元から再建へ」『デジタルアーカイブ学会誌』4(1): 2-3.
- 伊東忠太(1942)『琉球 : 建築文化』東峰書房.


