リベラーツの挑戦と学習ガイド
この記事のポイント
・「営業部長」のような肩書きでは、あなたの30年は語りきれない
・歴史家は、ばらばらな出来事に名前を与えて、読み解ける「資料」にする
・経験は、名前を与えられて初めて資料になる
1. 自己紹介が、肩書きで終わってしまう
「〇〇社で営業部長をしています」。初対面の場で、私たちはたいていこう名乗ります。わかりやすく、間違いもありません。けれども、異動や役職定年、退職といった節目で肩書きが外れたとき、ふと言葉に詰まる人は少なくありません。「では、あなたは何をしてきた人ですか」と問われると、職歴を年代順に並べることはできても、その30年が何だったのかを一言で言うのは難しいのです。
これは、語彙が足りないからではありません。肩書きは、組織があなたに与えた名前です。それはあなたが「何(what)」であるかを説明しますが、その仕事をあなたがどう生きてきたかは教えてくれません。自分の経験に、自分で名前を付けたことがない。だから肩書きが外れると、経験がばらばらの思い出に戻ってしまうのです。
連載の前回(第5回)では、30年かけて身についた「先入見」を、捨てるべき偏見ではなく、世界を読むためのレンズとして捉え直しました。今回はその続きとして、レンズを通して見えてきた経験に「名前を付ける」技法を考えます。手がかりは、歴史家の仕事のなかにあります。
2. 「ルネサンス」は、どこにも落ちていない
「ルネサンス」と聞けば、多くの人が14〜16世紀のイタリアを思い浮かべるでしょう。けれども、「ルネサンス」という名前の物体が、当時のヨーロッパのどこかに落ちていたわけではありません。それは後の時代の歴史家たちが、膨大な古文書や美術作品、思想の動きを一つのまとまりとして理解するために与えた「名前」です。
アメリカの歴史家チャールズ・ハスキンズは、1927年の著書『十二世紀ルネサンス』で、12世紀にも「もう一つのルネサンス」があったと論じました。ラテン語古典の読み直し、ローマ法の復興、大学の誕生といった動きを丹念に読み解き、「暗黒の中世」と呼ばれてきた時代にも知の再生が起きていたことを示したのです。名前の付け方が変わると、同じ史料の見え方が変わります。
このように、ばらばらな出来事を一つの概念のもとに束ねる歴史家の作業を、イギリスの哲学者W・H・ウォルシュは「総合(colligation)」と呼びました(Walsh 1951)。束ねるための概念が「総合概念」です。「ルネサンス」「啓蒙」「産業革命」は、どれも総合概念です。
この見方を、あなたの30年に当てはめてみてください。人事記録に残っているのは、配属先、役職、評価といった事実の一覧です。それはいわば、整理される前の古文書の山です。そこに「この時期の私は、何をしていたのか」という名前が与えられたとき、はじめて事実の並びが一つの意味を持ち始めます。歴史家が「ルネサンス」と名付けて時代を読めるようにしたのと同じことを、自分の経験に対して行うのです。
ここで大切なのは、総合を、歴史家が好きな物語を外から押しつける作業としてではなく、資料の奥で当時実際に働いていた考え方を見つけ出す作業として捉える点です。19世紀の科学哲学者ヒューエルは、精神が概念を事実の上に「押しつける」ことで事実がまとまると考えました(Whewell 1840)。ウォルシュはこの言葉を歴史学に持ち込みながら、歴史の概念は資料と照らし合わせて検証されるものだと考えました。押しつけるのか、発見するのか。この緊張関係が、命名の規律の出発点になります。
コラム:W・H・ウォルシュ(1913〜1986)
イギリスの哲学者。オックスフォード大学、エディンバラ大学で教えた。『An Introduction to Philosophy of History』(1951)で、歴史家が出来事を「総合」して理解する仕方を論じ、自然科学とは異なる歴史学に固有の説明のあり方を考察した。
3. 「それは都合のよい美化ではないか」
自分の経験に名前を付けると聞くと、こう感じる人もいるでしょう。「結局、自分に都合のよい物語を作るだけではないか」。もっともな疑問です。実際、「私の30代は挑戦の連続だった」といった言い方は、どこか自己啓発書の一節のようで、他人にはあまり響きません。とくに30年という長い時間を振り返るとき、私たちはつい、うまくいった場面だけをつなぎ合わせてしまいます。それ自体は自然なことですが、そうしてできた物語は、本人には心地よい一方で、他人には確かめようがありません。
ここで歴史家の規律が役に立ちます。総合概念は資料と照らし合わせて検証され、優れた総合概念ほど、反証によって磨かれてきました。ルネサンスという概念に対して、歴史家ジョアン・ケリーは1977年に「女性にルネサンスはあったか」と問いかけました(Kelly 1977)。当時の女性たちの生活を示す資料から見ると、ルネサンスは必ずしも「再生」の時代ではなかったのです。この問いによって、ルネサンスという概念は壊れたのではなく、より立体的になりました。
つまり、名前を付けることは、物語を閉じることではありません。検証のテーブルに乗せることです。自分の経験に付けた名前も、例外や反証とぶつかりながら、より確かなものに改められていきます。
4. 自分の経験で試す──命名の3つのルールと「例外条項」
では、実際に名前を付けてみましょう。リベラーツでは、次の3つのルールを使います。
- 肩書き(名詞)ではなく、動詞から名付ける:「営業部長期」ではなく、その時期にあなたが人との間で実際にしていたこと(つなぐ、守る、ぶつかる、立て直す……)から考えます。
- 「成長」「挫折」「挑戦」のような便利な言葉を避ける:誰にでも当てはまる言葉は、あなたの経験に固有の手触りを消してしまいます。
- 他人に説明できる名前にする:自分の頭の中だけで通じる言葉ではなく、聞いた人が「それはどういうことか」と問い返せる名前にします。
| 避けたい名前 | 理由 | 名前の例 |
|---|---|---|
| 課長時代 | 肩書きにすぎない | 板挟みを言葉にしていた時期 |
| 成長期 | 誰にでも当てはまる | 失敗を報告する習慣をつくった時期 |
| 第二の挑戦 | 中身が伝わらない | 畑違いの部署で、現場の言葉を学び直した時期 |
動詞が浮かばないときは、その時期に一番よく口にしていた言葉や、一番時間を使っていた相手を思い出してみてください。「頭を下げていた」「話を聞いていた」「数字を説明していた」。そうした小さな動詞の繰り返しのなかに、その時期の手触りが残っています。
たとえば、ある人は自分の30代を「孤立と試行の摩擦期」と名付けました。肩書きも、便利な言葉も使っていません。そして、聞いた人が「誰と、何が摩擦していたのか」と問い返したくなる名前です。
名前を付けたら、もう一つ大切な作業があります。その名前がまったく当てはまらなかった時期や出来事を、自分で一つ挙げることです。これを「例外条項」と呼びます。「孤立と試行の摩擦期」と名付けた人なら、「あのプロジェクトだけは、周囲が自然に力を貸してくれた」といった例外が思い浮かぶかもしれません。
例外を先に自分で書いておくと、名前は「完璧な自画像」ではなくなります。そのおかげで、後で他人から問いかけられたり、昔の記録と食い違いが見つかったりしても、自分を否定されたとは感じにくくなります。名前を改める余地を、最初から残しておくのです。
5分ワーク
- 30年のうち、一つの時期(たとえば30代)を選ぶ
- 3つのルールに沿って、その時期に名前を付ける
- その名前が当てはまらなかった出来事を、一つだけ書く
名前を付けるための素材が見つからないときは、評価表には書けなかったけれど確かに起きていた出来事を、先に書き出してみてください。この記事の下で紹介している「三列表ワーク」は、そのための無料のワークシートです。
5. Q&A
Q. 名前を付けると、かえってその名前に縛られませんか?
A. 縛られないために「例外条項」があります。名前は一度決めたら終わりではなく、例外や新しい資料に出会うたびに改めてよいものです。ルネサンスという概念がケリーの問いによって豊かになったように、あなたの名前も、問い直されるほど確かになっていきます。
6. 結び──経験は、名前を与えられて初めて資料になる
肩書きは、組織があなたに与えた名前でした。総合概念は、あなた自身が自分の経験の奥から見つけ出す名前です。名前を与えられた経験は、ばらばらの思い出から、読み直し、問い直すことのできる「資料」に変わります。肩書きが外れても、あなたの経験は消えません。名前を持たないまま、眠っているだけなのです。
ただし、名前は一人では磨かれません。他人に差し出し、問い返されることで、はじめて確かなものになります。次回(第7回、10月13日公開予定)は、その「差し出し方」を考えます。テーマは、会議でよく聞く「まとめますと」という一言です。合意を急ぐ話し合いが、なぜ大切な声を消してしまうのかを、ロシアの思想家バフチンの「ポリフォニー」から読み解きます。
参考文献
- Haskins, Charles Homer, 1927, The Renaissance of the Twelfth Century, Cambridge, MA: Harvard University Press.
- Kelly, Joan, 1977, “Did Women Have a Renaissance?,” in Renate Bridenthal and Claudia Koonz eds., Becoming Visible: Women in European History, Boston: Houghton Mifflin.
- Walsh, W. H., 1951, An Introduction to Philosophy of History, London: Hutchinson’s University Library.
- Whewell, William, 1840, The Philosophy of the Inductive Sciences, London: John W. Parker.
- 糸林誉史『人文知という第二のOS』リベラーツ叢書、第5章(近刊)
