越境するビジネス人類学:データが語らない「意味」を読む
企業が成長し、組織が大きくなると、必ずといっていいほど「業務の標準化」と「マニュアル化」が叫ばれるようになります。「誰がやっても同じ結果が出るように、プロセスを可視化してマニュアルに落とし込みなさい」——現代のビジネスパーソンであれば、幾度となく耳にしてきた言葉でしょう。近年では、DX(デジタルトランスフォーメーション)やRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)の導入により、この「人間の行動をシステムやルールに落とし込む」という動きはさらに加速しています。
しかし、現実はどうでしょうか。完璧なマニュアルを作成したはずなのに、現場では一向にその通りに運用されない。システムを導入しても、なぜかイレギュラーな対応ばかりが発生し、結局は担当者の「個人的な機転」や「勘」に頼って火消しをしている。経営陣や管理部門は「なぜ現場はマニュアル通りに動かないのか。怠慢だ」と嘆き、現場は「マニュアルを作った人間は現実を分かっていない」と反発する。
もしあなたが、こうした「マニュアルと現場の埋めがたい溝」に徒労感を感じているのだとしたら、その原因は個人の能力やモチベーションのせいではありません。問題の根源は、人間という存在そのものが「マニュアル(計画)通りに動くようにはできていない」という、極めて根源的な人類学的真実にあります。
連載『越境するビジネス人類学』の第7回となる今回は、1980年代後半から90年代にかけてシリコンバレーのハイテク企業で実施され、ビジネス人類学の歴史に燦然と輝く「伝説的なエスノグラフィ(参与観察)」の事例を取り上げます。人類学者ジュリアン・オア(Julian Orr)の『Talking About Machines』(1996年)、およびルーシー・サッチマン(Lucy Suchman)の『Human-Machine Reconfigurations』(2007年・旧版は1987年)の知見を手がかりに、「現場の生きた暗黙知」がいかにして共有され、組織の危機を救っているのか、その深層を解剖していきましょう。

Human-Machine Reconfigurations: Plans and Situated Actions (Learning in Doing: Social, Cognitive and Computational Perspectives)
1. 「フランク、建物が見つからない」――修理現場のリアルと埃の歴史
1980年代、米国の巨大企業ゼロックス(Xerox)が設立したパロアルト研究所(PARC)には、エンジニアだけでなく、人類学者や社会学者が雇われていました。当時、コピー機はオフィスに欠かせない最重要のインフラであり、それが故障すれば業務は完全にストップしてしまいます。そのためゼロックスは、顧客のオフィスを飛び回って機械を修理・保守する「テクニカル・レップ(修理技術者)」を多数抱えていました。
経営陣やエンジニアたちの目には、コピー機は「工場から出荷された均一な機械」として映っていました。そのため彼らは、修理作業もまた完全にマニュアル化・標準化できると考えていました。「このエラーコードが出たら、1000枚印刷して不良をチェックし、診断フローチャートに従ってこの部品を交換せよ」といった具合です。
しかし、人類学者ジュリアン・オアが実際に修理技術者たちのバンに同乗し、現場に密着するフィールドワーク(参与観察)を行うと、そこで繰り広げられていたのはマニュアルの想定とは全く異なる世界でした。
オアのフィールドノートには、技術者たちのこんな日常が記録されています。
フランクと私は、今日最初のコール(修理依頼)に向かっているが、彼はその建物を見つけるのに苦労している。(中略)顧客はRDH(自動原稿送り装置)の問題を報告してきたが、彼はまったく驚いていない。誰も1ヶ月半もその機械をメンテナンスしておらず、中が埃まみれになっているはずだからだ。
エンジニアが作成するマニュアルは、オフィスを「無菌状態の真空空間」のように想定しています。しかし現実には、コピー機は置かれている環境によって異なる量の「埃」を吸い込み、ユーザーの乱暴な使い方や、前回の修理担当者の癖などによって、一台一台が全く異なる「個別の歴史」を背負っていました。経営陣は埃の存在など気にしませんが、現場の技術者にとって「埃」や「顧客の癖」は、診断のための最も重要なコンテクスト(文脈)だったのです。
ある時、研究所の優秀なエンジニアが、現場のベテラン修理工(ミスター・トラブルシューター)に対して「もしこのコピー機に断続的な画像不良が起きたら、あなたはどうやってトラブルシューティングしますか?」と尋ねました。エンジニアはマニュアル通り「1000枚印刷して診断する」という答えを期待していました。 しかし、そのベテラン修理工は嫌悪感も露わにこう答えました。「私がどうするか教えよう。コピー機の横にあるゴミ箱をひっくり返し、捨てられた紙を全部調べるんだ。ユーザーは綺麗なコピーは持ち帰り、不良品はゴミ箱に捨てる。だからゴミ箱の不良品をスキャンすれば、何が原因か解釈できる」。
これこそが、マニュアル(形式知)には決して記述されない、文脈に埋め込まれた現場の「生きた暗黙知」の正体です。
2. ダイナーのコーヒーと「War Stories(武勇伝)」の交換
では、現場の技術者たちは、こうしたマニュアルに載っていない複雑で個別的なトラブルに遭遇した際、どのようにして解決の糸口を見つけていたのでしょうか。オアの観察は、経営陣が全く予期していなかった「意外な場所」に焦点を当てます。それは、シリコンバレーの至る所にある安価な「ダイナー(食堂)」でした。
経営陣にとって、修理技術者たちが現場への移動の合間にダイナーに集まってコーヒーを飲んでいる時間は、単なる「サボり」や「無駄な時間(empty/free)」と見なされていました。組織図や業務プロセスマップには、そんな時間はどこにも描かれていません。
しかし、オアは参与観察を通じて、このダイナーでの時間こそが、技術者たちにとって「集団で問題解決(Sense-making:意味づけ)を行うための最も重要なインフラ」であることを発見しました。
ダイナーに集まった彼らは、単に世間話をしていたわけではありません。彼らはコーヒーをすすりながら、「昨日、あそこのオフィスの機械でこんな妙なエラーが出てさ。全然原因がわからなかったんだけど、実は部品の裏にこんな傷があって、こうやって直したんだよ」といった、修理現場での「War Stories(武勇伝)」を互いに熱心に語り合っていたのです。
オアは、「診断とは、ナラティブ(物語)のプロセスである」と結論づけました。エラーコードという無機質なデータを、機械が経てきた個別の歴史という「物語」に変換し、それを技術者同士のインフォーマルなネットワークの中で交換する。誰かの武勇伝を聞いていた記憶が、明日自分が遭遇するかもしれない未知のトラブルを解決する決定的なヒントになる。
技術者たちの「語り(ナラティブ)」は、決して無駄話ではなく、マニュアルでは決して網羅できない現場の多様性と複雑さを補完し、組織の知識をアップデートし続ける不可欠な「知の共有エコシステム」だったのです。
3. 状況的行為(Situated Action)と分散認知
オアの研究を指導した人類学者ルーシー・サッチマンの理論は、この「マニュアルと現場のズレ」をさらに根源的な哲学レベルへと引き上げました。彼女の研究は、後のHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)やUXデザインの分野に革命的なパラダイムシフトをもたらすことになります。
当時の認知科学やエンジニアリングの世界では、人間は「あらかじめ設定された目的を達成するためにデザインされた計画(プラン)に従って、段階的かつ論理的に行動する存在」であると想定されていました。この前提に基づけば、完璧な計画(マニュアルやUI)さえ設計すれば、人間は機械を正しく操作できるはずでした。
サッチマンは、ゼロックスが開発した「8200」という新型コピー機のユーザー調査を行いました。エンジニアたちは、巨大な緑色のスタートボタンさえ押せば、内蔵された「インテリジェントな対話システム」の指示に従って誰でも簡単に操作できると豪語していました。 しかし、実際にユーザーが操作する様子をビデオで撮影・分析すると、事態は喜劇のようでした。ユーザーは画面の指示(プラン)を直線的に追うことができず、「ええと、ここを押したらどうなる?」「ああ、間違えた。最初に戻ろう」と、戸惑い、相談し合いながら、エラーと試行錯誤を繰り返していたのです。
サッチマンはここから、極めて重要な概念を導き出しました。それは、人間の行動は頭の中の「計画(プラン)」によって制御されているのではなく、常にその場の「状況(Situation)」や周囲の「文脈」に依存しながら、即興的かつ臨機応変に組織されているという事実です。これを「状況的行為(Situated Action)」と呼びます。
人間は、真空状態の中でマニュアルを読み込む孤立した情報処理システムではありません。目の前にある機械の手触り、同僚との会話、その場のノイズやアクシデントといった環境の要素と絶えずインタラクションしながら、「今、ここで何をすべきか」をその都度(アドホックに)組み立てているのです。この視点に立てば、人間の知性は個人の脳の中だけで完結しているのではなく、道具や他者、環境全体にネットワークとして「分散(Distributed)」していることになります(分散認知)。
完璧なマニュアルやシステムが現場で機能しない本当の理由は、現場の人間が愚かだからでも、怠慢だからでもありません。それは、複雑で予測不可能な「生の状況」を、事前にすべてコード化(Codifiable)できると信じるエンジニアや経営者の「傲慢な幻想」に起因しているのです。
4. Takeaway:標準化の限界を突破し、「生きた暗黙知」を流通させる
ジュリアン・オアやルーシー・サッチマンらがシリコンバレーで提示したビジネス人類学の知見は、テクノロジーが極限まで進化した現代において、むしろその重要性を増しています。
DX(デジタルトランスフォーメーション)やAIの導入が進む現代の組織において、経営者はしばしば「すべての業務プロセスをデータ化し、マニュアル化(標準化)すれば効率が最大化される」という誘惑に駆られます。さらに、リモートワークの普及や徹底した効率化の波は、オアが発見した「ダイナーでの無駄話(ウォータークーラー・トーク)」のような、インフォーマルな交流の場を組織から物理的・時間的に奪い去っています。
しかし、現場で発生する想定外のトラブル(システムのエラー、顧客の理不尽な要求、マニュアル外の例外処理)を最前線で食い止め、組織のシステムを機能させ続けているのは、いつだって現場の人間たちの「状況的行為」と、インフォーマルなネットワークを通じて共有される「生きた暗黙知(武勇伝)」です。
現代のビジネスリーダーや実務家がここから持ち帰るべき教訓(Takeaway)は以下の通りです。
- 暗黙知はコード化(Codifiable)できないと悟る: どんなに精緻なマニュアルやシステムを作っても、現場の複雑な文脈(埃の歴史)をすべて汲み取ることはできません。標準化の限界を謙虚に認め、「マニュアルの余白」を現場の状況的判断に委ねる勇気を持つこと。
- インフォーマルな「語り」の場をデザインする: 一見すると無駄に見える雑談や「武勇伝(War Stories)」の語り合いこそが、組織のレジリエンス(回復力)と知の共有の源泉です。効率化の名の下にこれらの場を排除するのではなく、むしろオンライン・オフラインを問わず、意図的に「ナラティブが流通する余白」を設計すること。
- 現場のハックを「怠慢」ではなく「適応」として評価する: 現場がマニュアルから逸脱した行動をとった時、それを単なるルール違反として罰するのではなく、なぜその「状況」においてその「行為」が必要だったのかを人類学者の眼で観察し、真の課題を発見すること。
5. 「会社のマニュアルが機能しない本当の理由」をハックする
「会社のマニュアルが現場の実態と合っていない」「自分が現場で必死にトラブルを解決している『泥臭い工夫』を、上層部は誰も評価してくれない」——日々の業務でそうしたもどかしさを抱えているのだとすれば、それはあなたが組織の不条理(システムの限界)を誰よりも正確に感知している証拠です。
あなたの頭の中には、公式の業務記述書(Job Description)には決して書き表せない、長年の経験に裏打ちされた豊かで複雑な「暗黙知」と「武勇伝」が眠っているはずです。しかし、それを単なる居酒屋の愚痴で終わらせてしまっては、あなたのキャリアも組織も変わりません。
eスクール「リベラーツ」が提供する【創生演習:ビジネス人類学で自組織をハックする】のWeek 3プロセスでは、まさにこの「現場に埋め込まれた生きた暗黙知」を言語化し、自らの価値を再定義する実践ワークを行います。
会社から与えられた「名詞(肩書き・役割)」の枠組みを一度解体し、あなたがこれまでのキャリアで本当に成し遂げてきた状況的行為(泥臭い工夫や他者へのケア)を「動詞」として抽出し直す。そして、それをあなた自身のこれからのキャリアを導く「マイ・プロジェクト(マニフェスト)」へと昇華させるのです。
もはやあなたは、機能しないマニュアルに従順に従うだけの歯車ではありません。状況に応じて即興的に知を紡ぎ出し、組織の死角を補完する「知的熟練者」です。あなたの中に眠る「武勇伝」を、未来を切り拓く強靭なナラティブへと変換する旅へ、ぜひご参加ください。

